護王神社参拝と神宮参拝
ちょっと前ですが6月7日・8日・9日の二泊三日で京都、伊勢に行ってきました。毎年の神宮評議委員会に合わせ妻を随行にしてちょっと息抜きを兼ねた小旅行をしています。今年は当神社御鎮座1200年の記念に京都護王神社へ氏子旅行を計画していたのですが諸事情で延期になりとりあえず二人だけでご報告の参拝をしてきました。
当神社御祭神和気清麻呂公を祀る護王神社に参拝。清麻呂公を最も研究されている京都産業大学名誉教授若井勲夫先生と面会、秋に出版予定の和気清麻呂公景仰史について意見交換をいたしました。その後、京都アパホテルに宿泊、翌日清麻呂公が眠る高雄神護寺の清麻呂廟と墓所に向かいました。高雄は新緑の紅葉が美しい素晴らしいところですが神護寺の山門まではなんと350段の石段を上らなければなりません。
息も絶え絶えに山門にたどり着いた後、清麻呂公の墓所まではさらに山道を登らなければなりません。妻は手前での遥拝を希望したのですが、せっかくここまでやってきたのでと励まし、這う這うの体でお参りをし、御鎮座1200年のご報告をいたしました。約15年前に氏子旅行で来ている場所なのにこんなに大変だった記憶がないのです。やはり年を取ったのだと改めて自覚しました。
更に翌日は神宮参拝。外宮、内宮を参拝の後、神宮会館で評議委員会に出席しました。伊勢は私たち夫婦を育んでくれた大切な場所、一年に一回のお礼参りです。
内宮正式参拝の後、ほかの皆さんと行動を別にして必ず風日祈宮を参拝します。風日橋から五十鈴川の上流を望むと心が静まりかえります。大自然の中の小さな一粒に過ぎない自分を感じざるを得ません。
風日祈宮に必ず参拝するのには大きなわけがあります。世の中の人の記憶にはほとんど残っていないことだと思いますが、昭和50年9月15日に起こった伊勢神宮風日祈宮火炎ビン攻撃事件。当時皇太子殿下であられた今上陛下が三重国体へのご臨席にあわせた過激派の仕業でした。この事件を受け、皇學館大學の学生が大学院生を中心に自警団を組織し24時間の神宮警備にあたりました。当時2年生だった私も参加し神宮衛視が詰める番舎で寝ずの番をしました。このことを通してに出会った方々が今の私を作ってくれました。当時の歌会で詠じた「何事も起こらぬあれと願いつつ番舎の中より耳をすませる」は敬愛するH先生からとても素直な気持ちが表れて良いと唯一褒められた歌です。この場所に来ると毎年自然と思い出される歌です。後日読んだ佐々淳行氏著作の「菊の御紋章と火炎ビン」で知ったことですが、警備の指揮を執っていた佐々氏は神宮に対して過激派攻撃に備えるべきことを進言していたのですが神宮に対してそんなことをする者はいないと一笑に付されたとか、事件後ようやく神宮側から佐々氏へ赤外線監視システム導入の相談があり日本警備保障(現・セコム)が日本国民の一人として無償で奉納したいと申し出たという事。その後、全国の寺社仏閣からどっと問い合わせが殺到したとか。備えに甘い日本人の気質は改まっていません。やはり教育勅語の「一旦緩急あらば義勇公に奉じ」の精神が教えられない現在の情けなさからでしょう。
こうして、京都・伊勢への参拝小旅行は終了ししたが、ちょっとおまけに京都・伊勢の夜の話。
雨の京都の夜も趣があってとてもおつなもの。友人から紹介された先斗町の小料理屋で食事。こだわりの亭主でまず突き出しの琵琶湖のホンモロコの甘露煮から始まり、若鮎の開きの一夜干し、宍道湖の天然ウナギ、隠岐の島の岩牡蠣、徳島の鱧の白焼きなど次から次と出てくる料理に日本酒がついつい進みます。この店は故中村勘三郎さんや某元首相などお忍びでやってくる有名人が多いとか。その後、傘をさして宮川町へ移動。依然お邪魔したことのあるお茶屋さんのお座敷カウンターバーで一杯。やっぱりお茶屋のおかみは会話が上手い。ちっとも飽きさせません。楽しい楽しい非日常を充分満喫しました。
伊勢では、神宮主催の懇親会には出席せず私たち夫婦が学生のころから続けている焼鳥屋さんとショットバーに毎年顔を出します。両店のご亭主、おかみさんともに80歳越え。元気に頑張ってます。貧乏学生のときはよく安い金で飲ませてもらいました。また来年健康での再会を約束して、40年前に比べ今ではとても寂しくなりましたがなつかしい伊勢の夜を楽しみました。